昭和四十三年九月六日 朝の御理解 ただ今から、昭和四十三年九月六日朝の御理解を頂きます。
X御理解第八十四節「おごりがましいことをすな。ものは細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも次第に踏み広げて亨のは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。
八十四節のここんところをこのまま頂かしてもらう。繁盛のおかげを頂くために道に草を生やすようなことをすな。みんなが繁盛のおかげを願っております。そりゃ、商売する者は商売繁盛のおかげを願っておる。子孫繁盛を願っておる。いわゆる、繁盛を願っておるわけであります。けれども、それは一時にパ-としたおかげを受けることは繁盛でないと言うてある。繁盛と言うのは細うても長く続くということが繁盛だとこういうてある。それをたとえば、踏み広げて通る。繁盛の道というのは、だから、言うなら、生優しいものではない。踏み広げて通る。踏み広げると言うことが繁盛だ。それに、一番繁盛のおかげを願いながら、その繁盛を中止してしまうと言うことを繁盛の働きを無くしてしまうと言うか、そういう心はおごりがましいという心と言うことになる。ただいま、お互い繁盛のおかげを頂いておりましても、おごりがましいことをするな。如何におごりがましいと言う心が繁盛を妨げるかということがわかますね。しかも今日はもうかったと、今年はこげん儲かったということが、繁盛ではない。それが細うてもだんだん踏み広げる。だんだん長く続く。しかも去年よりも今年、今年よりも来年というように踏み広げる、踏み広げて通ると言うことがいわゆる良かったり、悪かったり、いったようなものではなくてだんだん、だんだん踏み広げて通ると言うことが、繁盛だとこういうておられる。それには道に草を生やすような事をすなといわゆる何時も生まず、たゆまずの精進を言うておられるね。油断するとすぐ草が生える。道に草を生やすような事をすな。私今日この御理解はそのようなふうに頂かしてもらうと思うですね。ただ今申しますことでだいたいこの御理解を頂くと言うことにおいてはまあ意を尽くしたと言うことになる。ただよんだだけではね、この御理解を受けて見るとこれがなお一段とわからして頂けるわけなんです。繁盛とはどういうようなことか家繁盛と言うものが細うても長ごう続くということであり、かりにも道に草を生やすような事をすなということであり、その繁盛の一番邪魔になることは一番初めにおごりがましい事をすなとおっしゃっておられますようにおごりがましい心が如何にそれを繁盛でないことにしまう。繁盛に邪魔になる心であることをここに教えておられますよね。今日私は御神殿に出向して頂いて今日の御理解を願ごうて下りましてたらね。お野菜の大根、大根を切っておるところを頂いた。見易いことを大根を切るようか見易いといいよるでしょうか。大根を切ると言うことは見易いこと、どう言うようなことだろうか。何時も御理解に大根と言うものは白い色をしとるからね。黒うない、苦労しとらん。苦労なしに育っておると言うか、と言うような意味まで頂いております。それを切っておると言うことはどういうことだろうかと思うて御祈念中はわからんなりだった。とうとう私はどういう意味か分らんなだった。そして、ここに下がらして頂いて今日の御理解を頂いておりましたら、御理解八十四節である。はあ、今日御理解を頂いたことは、この御理解八十四節の事だったわいなあと分からしてもらった。まあ、いうなら比較的お野菜の中でも手の入らないというか苦労せないで育てることの出ける大根の様な野菜ではなかろうかと私は思うです。苦労なしで育つ。それでもやはり種を蒔いて身を切って、そしてそれがそれが育つ、虫が付く、水をやらなければならない。肥料をほどこさなければならない。もちろん、草をとらなければならない。一本の第湖のが育つまでもそこにそれだけの手を入れなければならんと言うことです。時間がかかると言うこと、細うても長ごう時間がかかると言うこと、苦労がなくてもやはりこれだけの時間がかかると言うこと。けれどもですね。それを切ること、それをきざむこと、これは簡単なということです。はあ、そういうことだったと思う。たとえば、まあ善智善のうの神様、この神様ならどんなことでも出けんことはないと言うようにお互い感じておりますけれども、如何に神様とてもお育て下さるということにはやはり時間がかかると言うこと。さあ、如何に神様でも昨日種を蒔いたものが今日こんなに大きく大根にして下さると言うことは出来ないということね、そこにはそれこそ、場合には気長ごう、場合には血の出るようなにじむような思いをさせて頂きながら、育ち育てられるのであるね。そこんところを私は育て育てられるのである。神様だけでも出けん。例えば、子供を育てるでもそうでしょうね。自分が育てる、私が育てたというけれども、自分で子供を背をば引き伸ばす事も出来なければ育てねばでけ内でしょうが。天地の親神様のおかげを頂かなければ、だから、神様、**いうわけに如何でしょう。お乳も与えなければならない。物も与えなければならない。着物もきさなければならない。というてなら生まれたばっかりの赤ちゃんをさあ、もう二十位に使用と言うわけにはいかんでしょう。一年一年子供を育てる、岩場、育ていくことを楽しみたい。幼児から、少年青年と言うようにですね。段々お育てを頂くのである。自らなるものの中に育つものがある。又、そこを育てられておるのである。言うなら、神様と人間と本人とのいわば、合作なのである。なら、これをですよ。これをたとえば、絶やすと言うことこれを殺すと言うこと、これは訳ないことです。神様が命を召されるということになれば、あっと言う間もない。私は大根でも育てるにはこれだけの時間がかかる。けれども、これを切ってきざむことはあっと言う間に出来る。私はこの八十四節を頂いてから、今朝から頂いた事、そのように頂かしてもろうた。信心でもそうである。信心のお育てを頂くと言うか、確かにお育てを頂くと言うことでもです。神様がお育て下さるのですけれども、私どもがやはり野菜を育てると同時に草もとらなけならない。虫もとらなければならない。そこに神様がお育て下さるのに、いうなら、お育て良いように名、心の状態、その精進が如何に必要なということ、わかりましょうか。いわゆる神ながら、主義とこう申しますけれども、神ながらと言う中にはそうした***ながらのものがなからなければ本当の神ながらのお育ちと言うことはいえんのです。出来んのです。私どもも育とうという願いを持たなければならない。それをお育て頂くところの神様、その育てるための御用をしてくださる。例えば、金光大神、取り次ぎの親先生がお育て下さる。ここに如何に私はこの気短なと言うかせっかちな事では育たない事が分かりますよね。本当に**ような豊かな心にならなければ物は育たない。**様な心では育たない。せっかちでは物は育たない。いわゆる気長ごうである。いわゆる細そうても長ごう続くと言うことである。けれどもそこんところが道に草を生やす様な事をすな、踏み広げて通るようでないと繁盛でない。そうなからなければ育たないということになるのですよね。ありがたきときはありがたい。誰でもそれはあるです。ありがたいときはもう暑さも寒さもないほどにありがたいかと思うと一つもありがたくないときもある。信心もお参りもせんようにな。そうところが私は大事にされていかなければならない。そういうところを実意丁寧に頂いて行かなければ行けないでないと枯れてしまう。そういう私は精進が必要である。おかげが段々繁盛の一途をたどる。いわゆる、家繁盛、子孫繁盛のおかげに段々なっていく。おかげを頂く間にはその様なさまざまなもうこれで枯れやせんだろうと言うようなところも通るけれどもそこを辛抱し抜いて行くと言うことが細うても踏み広げて通る。道とはそういうようなところを通る道ではなかろうか。なるほど、信心辛抱と言われる訳がよう分かる様な気が致します。**かけると言うことはなかなか難しい事でありますけれども、時間がかかりますけれどもそれを崩す段になれば、あっと言う間に崩れると言うのです。なるほど、如何に信心、辛抱ということが大事かと如何になるほど、おごりがましい心と言ったような事が慎まねばならぬことがわかります。そこでここで思われることですね。そういう信心を身に付けて行くと言うことでそいういう信心を頂いて行くと言うこと、そこでなぜ、おかげおかげでなぜおかげをおおうて行くと言うような信心がいけないかと言うことがここのところの八十四節を頂くとようく分かります。おかげから、おかげを求めて行くような信心はです。如何にそれがはかないことになっていくかということです。お金ね、こうやして一生懸命なったばってん、もうおかげ頂けようらんと言うたら、もうそこでやめてしまわなければならん。そうでしょう。おあげ自分で思うようになるばっかりでないんですから。如何におかげを求めていく信心が子孫繁盛にならんのか、家繁盛にならんのか、これでは細そうても長ごう続くような、続くと言うことが出けんということが分かるね。いや、もう五十年も例えば、信心をしとりますというてもです。それがおかげをおおての信心じゃったら、途中でもう消えておる。五十年の間、何遍もずうっと踏み広げて言ったような信心じゃない。たとえ、長年信心しておることが長ごう続くと言うことは細そうてもだんだん、だんだん踏み広げるとおっしゃっておられる。踏み広げると言うことは五十年たったら、五十年たっただけ広いところに出ておらなければならんということ、ただ何十年だらだら続いておるという意味じゃあない。初めの間は細いところから、踏み広げなからなければ繁盛じゃあない。いわゆる去年より今年と言うように広がって行かなければ繁盛じゃないというのである。信心はしておりますというても、言うならば、草をとらなければならない時、草をとらず、虫をとらなければならん時に虫をとらず、水を与えなければならないときに水を与えていないから、育たない。同時におかげを追求するとおかげを追うと言う信心が如何につまらないことになってしまうかと言うと同時になら、なるほど願わならばこと、ここんところを願わなければならんということをです。*ざさなければならないかということが信心をさせていただいて本当に神様の御信用を頂かしてもらえる。真実御神徳を受けさせて頂くと言うことは願い抜かなければならないことが分かります。御神徳を受けていく。度のような場合であっても人徳を受けていく事が願いであるならばはあ、神様はこの難儀なこと、この苦しいこと、このことによってお徳を下さるんだなあ、いや、このことによって受けなければならないと言う自らなる心の中にいよいよ育つ心が旺盛になってくる。だから、願いの焦点と言うものがおかげではなくていわば、はっきりいうならば、御神徳を受けるということが焦点である。そこでその御神徳を受けて行くと言う事をよりスム-ズにそれを受けて行けれる。その手段、方法としてここでは成りゆきを大事にして行けと言うわけなのである。どのような場合であってもそれは神様が求め拾う修業であるならばその修業をありがたく合掌して受けていけというのである。成りゆきを受け抜いて行けと言う生き方、これはおかげを受けるためではなくてお徳を受けるためなのだね、その事によって一徳受けようという、いわば奮発する心と言うものが心の中に何時もあるところから、例えば難儀、とても普通ではやりそうもないことがありがたく又、元気な心でやり抜いて行けることが出来るのである。そうでしょう。これが例えば目の前に願っておかげがおかげと言うことだけが願いであったら、もう例えばそこに思うようにならなかったり、反対に難儀になったり、願った反対になったりすると、神様もいい加減なもんだと言うことになって言わば、信心はやめにゃせんでもそこに挫折する、そして同じことを繰り返さなければならない。踏み広げて通るのが繁盛である。そういうおかげの一途をたどらしてもらう。いわゆるお徳を受けさせて頂くための信心がそのようにしてずうっと続けられて行く。そこにも私どもがちょっと油断するともう草が生える。いわゆる油断大敵出ある。いわゆる怠慢になる。慢心が出る。そこでおごりがましいことをすな。おごりがましい心を慎まねばならんと言うふうに説いてございますね。お互いが本当の意味でのは繁盛、もうお商売を始めらっしゃる時には大分気落ちしようたから、*****いうなら、開店早々押すな押すなの繁盛だった。ところが日にちが立つにつれて段々お客さんの足が遠なった。寂れて行った。どこに原因があるか少しお客さんがどんどんあるようになったら、もうおごりがましいことを思うようになり、おごりがましいことをする。お客さんに対し、親切を真心を尽くさない。お客様の選り好みをするようになる。いわゆるもう奉仕心がなくなってくる。なるほど、これではです。繁盛しないはずがわかる。それが段々、段々繁盛の道をたどると言うことは開店したときのあの気持ちこそ、どのようなお客さん出も大事にする真心いっぱいもう損とか、得とかでない、お客様本意、そういうような実意丁寧にならせて頂くところにいよいよお客様の信用がついてくる。もうあの店ならと人が信用してくれるようになる。そこに自分の働きだけではない。いうなら、人が儲けさせてくれると言ったような繁盛につながってくる。本当に例えば財産が出来ると言ったような時にはね、もう人が儲けさせてくれるのです。いうなら、言うならば、神様のおかげがね、いよいよ頂けるのは、そういう様な心の上にしか、神様の働きを頂くことは出けん。実意もなからなければ、言うなら、奉仕精神もない。それが神様どうぞ繁盛させて下さい、と言ったような願いをしたところで***おかげを頂くはずがないでしょう。その時だけをごまかして半分が通るような実意のないことではいけないことがいよいよ分からしてもらえますね。八十四節をですね。今日はそういう例えば育てる、育つと言うことは如何にそれは神様であっても一遍に育てなさる事は出来ないと言うこと。けれども、それを枯らす、それを殺すと言うこと、ならば、それこそ、大根を切るよりも見易う出けなさるということ、神様のお働きの内容と言うものを申しますことはそういうことなんです。神様なら、どんなことでも出来なさると言うことではないと言うこと。せっかく例えば、十何年間御信心をさせてもらうて信心のお育てを頂いた。ここまでお育て頂いた。これからもいよいよ、お育てを頂かねばならない。それには私どもの精進、神様が育てて下さるんだけれども私どもが虫をとらねばならんことであり、草をとらなければならんのである。私どもの心の中にいよいよ元気な心を頂いて自らなる育つ心を言うものがなからなければ本当の事になってこないと。本当の繁盛ではない、と言うような事を今日の御理解の中から頂いた訳でございますね。如何に現在の信心を大事にしなければならないかとはあ、もうえらい大事にする。例えば、子供でも育てると言うこともそうですよね。この辺で一つありますことはね、あまりにも可愛いうてたまらんもんですから、もうそれを早く育てようと思うてから、栄養を与えすぎる、いうなら、余りにもなれさせようとするとかえって枯れてしまう。長い願いをもって、放任しとかならん時もある。この辺が難しい。さあ、これを一本にさせなければと思うて肥料をやりすぎる。かえって、とう肥料になってくる。枯らしてしまうことがある。そういうところが細うても長う続くと言ったような内容がそんな事ではないかと私は思います。もう、生まず、たゆまずと言ったことが信心には一番必要だと言うことが分かります。しかも目指すところがただ、目先のことだけではなくてあの世にももっていけ。この世にも残して行けれると言うようなものをめざす。そこにお育てを頂かしてもらう。お育てを下さるとも神様がお育てをなさる状態がある。ただおかげだけ目指しておるとそれで思うようになりゃいいけれども、そうばっかり問屋はおろさんと言うことがある。そうするともうおかげでないように思うたり、信心がしざござになったりする。てんでおかげを頂くためには***信心をしよるかと思うと信心をゆるめてしまう。これでは、私は繁盛にもなって行かないだろうが、信心が育って行くことは出来ません。おごりがましいことをすな。ものは細そうても長ごう続かねば繁盛でないぞ。細い道でも次第に踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすような事をすな、と言う表現に言葉に現れているところだけでもこの通りでございますから、その内容を違った角度から、今日頂いた様に思いますね。どうぞ。